最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

民主主義を否定したことにしたい人々

あの犯人は寂しかったんだろう。

凶行にでる者は凍えるような寂しさの果てにある。

愛に飢えたものは愛の裏返しとなり憎悪そのものになる。

 

彼は別に民主主義を否定したわけではないだろう。

家族を失ったことの恨みを単に晴らしたかっただけだ。

母親を奪われたと感じた。

私はなんとなく彼の心情に同情するのだ。

 

どんな人生であろうとも暴力に訴えてはいけない。

こんな恥ずかしいコメントを出さざるを得ないコメンテーターは金で魂を売っている。

人間の変わり果てた最後の姿は暴行魔である。

自分自身の事を棚にあげてこのおぞましい事実から目をそむけてはいけない。

自殺した人間はある意味立派ではないだろうか。

とどまったのだ。

自分の内側だけで爆発させた。

自殺したら地獄に行くという者がいるが、あれはウソもいいところである。

暴行魔になって地獄に行くのである。

 

このブログでは宗教に対する危険性もときおり指摘している。

ともかく、宗教は利用するものであって利用されるものではないということだ。

究極の真理にいたっては金銭評価は不可能なのであって、金をかければ達成できるという性質のものでもない。

私は常に言っている。

毎日掃除と片付けをする。

酒を飲まない。

これだけで相当なところまでいけるのである。

河口慧海氏の在家仏教という本は是非読むべきで、氏は声聞縁覚を下にみることを諫めているが、修行に相応しい教団が乏しくなっている現代では勇気づけられる。

 

あの統一教会のボスの弁舌はさすがとしか言いようがない。

なるほど信者が生じるのも無理はないかと思える程度のレベルである。

しかし、所詮は弁舌である。

そして事業としての弁舌に過ぎない。

それは非常に修羅場に慣れている。

具体的な実践を通して己の認識を整える者からすれば、あんなものに騙されるわけがないのであるが、世の中には読書から己の認識を整えようとする者も多い。

そういうタイプはコロッと騙されてしまうこともあるから警戒した方がいい。

オウムの信者がそうであったように。

 

最近は寂しさを抱えている者が増えている。

暴力だけは絶対ダメ!

これは勝者の論理でしかないことにそろそろ既得権益層は気付かないといけない。

民主主義を盾にしている場合ではないぞ。

自殺しない人間が増えていく。

それは他殺に走るということだ。

それについて迷いなく恥知らずと言えるだけの功徳が社会から消失しかけている。

ここが一番の問題なのである。

相当な理由があるようにみえてきている。

恨まれるようなことを続けてきた人は恐怖で眠れない時代になりつつある。