一位の人の体験談は役に立たない。
それぞれがそれぞれになるということが人生の目標だからだ。
他との比較から自由になることが己の宇宙を持つということである。
自分を忘れて他に望みを託そうする姿勢は、夜の街頭の光に群がる虫と同じである。
暗闇であっても朝まで待てる胆力があるだろうか。
他との比較において1位であっても己に克っているとは限らない。
これはよくあることだ。
コップとバケツどちらに水が多く入るか。
こんなことに意味はない。
コップにはコップの役割がありバケツにはバケツの役割があるからだ。
しかし、バケツがコップに憧れることがままある。
これが不自由であり不幸である。
自分になっていくことが大切である。
自分を生きている人は清々しい。
その清々しさが他に与えるということだ。
物や便利さを施すことではない。
人は弱く確信なき故どうしても勝ちたいという欲求が生じやすい。
己を捨ててでもマウントをとりたくなることがある。
そこが愚かさの源であると私は思っている。
不幸は迷うから生じる。
では迷いはなぜ生じるのか。
それは自分と他と比較しようとする心があるからだろう。
それはワンネスに到達する前に乗り越えるべき壁である。
それはワンネスに似たただの自他の混同である
あえて言わねばいけない。
己の身の回りのことを疎かにして宗教活動に専念することは、これはあり得ない相であると。
それはただ教団の便宜のために行動しているにすぎず教えに生きているとは到底いえない。
はっきり言わねばいけない。
それは救われていないと。
教団というものにただ己の心が引き込まれてしまっているだけであると。
自分が幸せでなければ他の幸せは祈れない。
これも間違いである。
そんなケチな話ではない。
己の役割を全うしようとするから他の幸せが祈れるのだ。
チャンピオンであることは要件ではない。
凄くないものを凄いということは妄語である。