最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

国葬と山上氏の両立を

安倍晋三元首相は、何かの動画の中で「私は選挙で勝つためなら何でもする」というような趣旨の発言を確かにしていた。

そのひとつが統一教会の利用ということであったのだと今となって私の中で繋がるのである。

安倍首相が統一教会の教義に関心があったと思うかと問われれば、私はなかっただろうと答える。

組織票があれば政策実現に近づく。

ただそれだけのために演技をすべきときに演技をしていたのだろう。

 

安倍首相は保守であったか。

私が彼に対して不信を抱いたのは、習近平国賓のときであるが、政策として間違えたのはインバウンドだろう。

これは保守の理想とやはり現実的に矛盾を生じさせている。

しかし、当時、安倍首相以外に保守を飾る有力政治家が皆無であったこと、また、自民党自体が一枚岩の政治集団ではないということを考え合わせると、安倍首相においても党内において政治的に妥結せねばならなかった事項は多くあったことだろう。

さらに、安倍首相がやはり多くの外国の要人に愛されているということはこれは事実である。

人柄という点で確かに光るところはあったに違いない。

 

国葬はしてもよいと私は考える。

理由はひとつ。

現役の政治家が銃弾によって倒れたということで十分である。

つまり、元総理であるということは私の考えにおいては要件ではない。

今後も、もし政治家が暴力によって死んだ場合には国葬をすべきであろう。

政治家は常に暗殺のリスクがある。

心して立候補した者が憲法で定められた代表民主制の中で暴力によって散ったとなれば、国葬に値するだろう。

 

そして、山上氏についても破廉恥犯ではない扱いをすべきである。

彼の行いによって正された政治の姿を目の当たりにしたことを隠蔽するべきでない。

 

つまるところ、国葬についても山上氏についても両立させることが日本の行き方であって欲しい。これならば浄化がある。

二人とも我々と同じ日本人なのだ。

怨嗟だけが残るような進み方は日本には相応しくないと私は信じている。