いわゆる宗教にはまってしまっている者の特徴がある。
それは、教えというものを土台にしたうえで何をするかという観点がない。
たとえば、教団の行事に参加しているだけで満足してしまっている者があまりにも多いようにみえるのだ。
年配者の場合は悲惨である。
ただの年寄のサロンと化している。
そこに(暇つぶし以外の)何か救いがあるだろうか。
あるわけがない。
自らの判断に自信が持てずに生の核心についての判断を教団に求める様になったら、これはもうただの奴隷である。
そうではないと諭しても言葉ではもう届かないだろう。
これには教団にも責任があると私は思っている。
夜空をみあげてみれば分かることがある。
ひとつして同じ星はない。
気付いて欲しいことはそこである。
己の人生の舵をとること。
そこに生のそれぞれの核心がある。
同じ道を行く者は誰一人としていない。
もし布教をしたいならば、尾畠春夫さんのように行動をもって行くべきだ。
言葉による布教はもはやこれからの時代では信用されない。
自分を投げ出したふりをすることが一番嫌われるのだ。
嘘をつくことができないところをもって誠をあらわすしかないだろう。
敵をも愛するといいながらちゃっかり訴訟をする。
こういうことを宗教家は絶対にしてはいけない。
もっともっと自分自身と対話をし自分を愛していく。
喜びも苦しみも自分の声をよく聴いていく。
そして、拙くても自分自身の言葉をもっていくことだ。
それをもって仏典を読み解いてく。
間違いを間違いとしてしることはそこからである。
分かったふりをして自分を誤魔化して宗教に熱をあげる奴は不幸である。
もっと静かで穏やかで自由であること自体を体験せねばいけない。
そういう落ち着きがあるからこそ、何をするかという主体的な観点が自然に生じてくるのだ。
自分らしさを主張せずに自分らしさを全開にして精進している者がいる。
結局、これが一番感化力があるのだ。
もっとも教えを語る者と言い換えてもよい。
信者である。