最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

心を御し暴力を管理する

例えば、長年イジメ続けた人間が、ある日、イジメていた人間に暴行を受けたとする。

この時、イジメていた人間は「暴力反対!」と主張する資格があるだろうか。

 

私はこの問題こそが今の日本の民主主義に問われていることだと考えている。

 

暴力さえなければ安心してイジメを継続できる。

こんな状況がやはり想定できてしまうのである。

暴力に反対する理由は保身のためであり、実は民主主義の擁護にはないような雰囲気があるのだ。

もちろん証拠は少ない。

もっと言えば直接証拠はない。

だからこそ怪しい。

 

少なくとも政治家は暴力反対を言うなと私はあえて言いたい。

三島由紀夫が言ったように、政治家には暗殺がつきものなのである。

むしろ暗殺の危険が迫る政治家ほど真の政治家とも言い得る。

真剣でない者は政治家を目指さない。

そんな環境が今必要なのではないか。

 

 

私も暴力は嫌いである。

なぜなら暴力という手段を使った時点で私の言葉は死ぬ可能性が高いからである。

しかし、暴力を100%放棄はしない。

やはり、言葉で通じぬ者が私の生に攻撃を仕掛けてくるならば、私は暴力を使うだろう。

問題は、言葉で通じぬ者がこの世に存在するという事実である。

同じ人間のようにみえる。

しかし、同じではないから難しい。

これは少し歳を重ねてようやく分かったことである。

若い頃には分からなかった。

 

これからの時代は理不尽がいつ降りかかって来るか分からないという恐ろしい時代となってくる。

人間でない者と対峙せねばならぬ機会は増える。

とにかく心を御する。

これがいかに大切かということである。

 

暴力を使う時は相討ちを狙う時だけであると今覚悟を定めておくべきだ。

 

暴力を使えばその時点で社会的には敗北してしまう可能性が高い。

刑法を学べば分かることだが、法益侵害の危険性が高まった時点で刑罰法規が発動される仕組みになっているところがとても興味深い。

つまり、法益侵害が高まる前の事情は関係ないのである。

我慢して我慢して我慢した結果暴行に出たとしても刑法はその暴行の時点しか評価しないのだ。

少し言い過ぎかもしれないが、しかし、構成要件の解釈において長年我慢した経緯を考慮する余地があるようにみえる条文を私はみたことがない。

つまり、基本的にやった方が罰せられる仕組みになっている。

うがった見方をすると、そもそも暴力をふるう必要がない既得権益側に有利な仕組みに見えるのは私だけだろうか。

 

心を御する。

グッと堪えることの重要性である。

五戒を護持できるということは本当に有り難いことだと思う。

五戒という指針と実践なければたやすく暴力が発動されてしまうに違いないのだ。

理解している人は少ない。