主張を変えるのではない。
生きるステージそのものを変えるのである。
己の打ち立てた規範とまさに行動を一致させていく。
これに尽きるように思う。
その規範が何人にも受け入れられるかどうかはその先の話だ。
そこは全身全霊で当たっていくしかない。
一歩一歩己が属する社会を新しく形成していくのだ。
敷衍したい。
憲法学ではよく表現の自由につき自己実現の価値と自己統治の価値があると言われるようである。
そして、自己統治とは選挙を通じた民主主義を指し、表現の自由が害されるとこの自己統治の価値が歪むがゆえに表現の自由は厳しい基準により司法判断がなされるという。
なるほどと受け入れることのできる内容である。
しかし、一方で、自己実現は幸福追求と結びついたものというような曖昧な説明しかない。
確かに間違ってはいないが、私は自己実現の価値と自己統治の価値というものは並列というイメージではなく前提条件の関係にあるように思うのだ。
私は自己実現ができていない者に自己統治について考える機縁など生じないと大胆に言い切ってしまいたい。
自己実現が第一である。
何らかの形で自分の生き方に覚醒する。
そうであるが故に、政治にも関心が持てるのである。
すなわち、己の生にとって不都合な法律や行政処分等といった権力作用から身を護るための行動をとるきっかけが持てるのである。
ほとんどの人が自分の人生を生きていないようにみえる。
まるでイワシの群れのようにみえる。
これは錯覚ではない。
私はもうこの先20年は、政治は蘇生しないだろうと読んでいる。
民主主義者の中にも憲法規範に固執する者はおり、結局は多数決を否定する方向で論陣を張りたがる者もいる。
立憲を重視するタイプは、突き詰めれば、結果としては、独裁政治と大差ないのかもしれない。
自由主義と民主主義を強制するからである。
私はどうか。
単純な多数決は支持できないし、法の支配を受容するがゆえに、立憲も重視しているだろう。
正直なところ、不勉強であることが原因であると信じたいが、私はまだこの辺りの決断がついていない。
立憲と民主主義をどう繋ぐのか。
これは難問中の難問ではないだろうか。
元に戻す。
己を己自身で支配する。
これからはこの意味での本来の自己統治でいくしかない。
人生を邪魔する者がいるならばその都度自然権を行使していく以外ないだろう。
いわば社会契約説を解体し本来の姿に戻るのである。
抵抗権の萌芽でもあるかもしれない。
主張で変わっていくものはもうない。
己自身の生きるステージを変えない限り、本当に先がない時代になってきた。