最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

縦横無尽に中心を生きる

まさしく、人による。

やり過ぎているならば、減らす。

足りていないならば、増やす。

 

一面的なアドバイスを額面通りに受け止めてよいのは、酒を飲まないということくらいではないだろうか。

酒は飲まなくても全く悪影響はないからである。

 

加減を知るためには、やはり体験を重ねるしかない。

動きのある中でのみ見えてくるものがあるからだ。

まずいろいろやってみる。

そして、たくさん失敗をすることが大切である。

ただし、首を折るような致命的な失敗はしてはいけない。

計画上の失敗と表現すべきだろうか。

 

他人に翻弄される時期も振り返れば必要ということになる。

この時期がなければ、自分のペースを描きようがない。

思春期から青年期にかけては、地獄のような苦しみを体験することがあるが、あれは壮年期に必ず生きてくる。

動けなくなってもあきらめてはいけない。

どん底でこそ願いを込めた種だけはまいておけ。

 

失敗を恥だと考えてしまうのは、失敗の本当の価値を知らないからである。

バカに囲まれて苦しいならば、それは修行である。

バカに囲まれて余裕が生じているならば、それは罠である。

自分を誤魔化してはいけない。

 

よく自分を観察して適切に対処していくことが智慧だ。

豹変していけばいい。

誰にも縛られることではない。

 

もし教育というものを示すとすれば、それは智慧に生きている者の生き様そのものだろう。

私自身もそうであった。

言葉はどれだけでも誤魔化せる。

しかし、動きのある中で描かれていくものは動いている者にしか認識できないのだ。

体験と体験が共感を生むのだ。

 

精一杯やっていれば、親友は必ずできる。

孤独なのは真摯さが欠けているからだ。

重要なことはキャラといったような人柄ではない。

真摯さのみである。