最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

正義の観点に立っていくことの楽しみ

今日も午前中は掃除をした。

年末の大掃除という考えはもう私にはない。

家族がそれぞれの場所から様々な思念を持ち帰ってきている。

それが家の中で散らかるというように私は観じている。

常に家の中が清潔であるということは、ひとつの備えであり安全保障だ。

神々の通り道は常に浄くなければいけない。

どれだけ真言を唱えようとも身口意が結集し荘厳していかねばいけない。

霊的に浄まったならば実際にその場も浄まらなければいけない。

これが荘厳である。

 

午後からは草取りをしたい。

畑仕事まではまだ届いていないのであるが、土と向き合うための体力作りはこれからの私の責務であり楽しみである。

一歩一歩進めていきたい。

 

衆生の救済という見地に立つということが利他行の基礎である。

せこさというものからいち早く離れることが大切なのではないかと思うところだ。

染みついてしまった損即勘定という考えには十分警戒せねばいけない。

もちろん契約というものはあってよいのであるけれども、その扱いがすべてではないということである。

うまくいかなった時にうなだれるようではやはりせこさが優位している。

利他というのは魂の威力の広がりである。

生きた法による温かさである。

 

智慧に従って精一杯生きている人は美しいのだ。

そのような人と一緒にいることが吉であろう。

しかし、周囲の頼むことは邪である。

どのような境遇であろうとも自ら立っていくところに幸福の芽がある。