20代の絶望を時代を思い出すことがある。
当時は読書と映画の毎日だった。
信心の萌芽が世俗との間で摩擦を起こし、不良と比べれば真面目であったが、真面目な者と比べれば不真面目な自分に葛藤があった。
思考が、砕けたラピュタのように大地から離れ続けていくようだった。
たとえば市役所で住民票すらとれないほどだった。
抽象的な世界観ばかりで世間のことが驚くほど分からない。
世捨て人のような存在だったと思う。
そうした中、心がほぼ壊れてしまった。
地元を離れてたった一人で関東に住み食品工場でバイトをはじめるところからスタートしたのだった。
なぜ食品工場なのかというと近所のコンビニの面接に落ちたからであった(笑。
甘かった。
何も考えることなくただ広告で目に入った食品工場を選んだのだった。
朝6時から勤務。
雨だろうが雪だろうが自転車で通った。
昼過ぎにアパートに帰ることができたので、そこから学問を学んだ。
そういう生活によってはじめて自分に人格が備わったのだった。
風雨を肌で感じるとか重い物を運ぶといったことが自分の妄想を砕く契機になったのだ。
あれから20年ほど経つ。
その間にも苦しい時代が何度かあったが、食品工場時代に学んだことは立ち上がるときの自分なりの方法論となった。
今では戒定慧という型割においてさらに整理されたけれども、体を使うことと具体的に考えるということの意義は信心から得たものではない。
もう少し言えば、それは言葉で正確に表現できる範囲というものについて慎重であるべきという人生経験を通した確信である。
戒定慧といった際に私は絶対に超能力は想定しないのである。
言葉の意味として用意されていない事柄を語ることはとても危険なのである。
つまり、それをやると必ず狂うのだ。
現代のインテリ層の多くが、砕けたラピュタになり果てている。
責任持てないことを堂々と語るコメンテーターは最たるものだと私は思う。
無垢な学生を盾する左翼系の学者も同じである。
合理主義といった場合、その理を言葉だけで実践していくことはとても危険なのである。
人の営みを支えているものに対する畏れや謙虚さというものは自らの肉体に対する打撃を通してのみ整えられていくといっても過言ではない。
自分の出来ないことを知る。
これが大切なのだ。
私は挫折をしたから救われたが、挫折をせずに進んだ者の大地との靭帯はすでに切れてしまっているに違いない。
肉体的苦労を忘れたインテリ層の嘘がそろそろ暴かれていく時代である。
一方で、やはり古典の巧さに気付かされる時代でもある。
10歳で天涯孤独となったフランスの啓蒙思想家のルソーあたりはやはり読むべきだと思う。
やはり単純な巧さなど存在しないのだ。
巧さに潜んでいるものを認識する力が求められている。
その力は精神的苦労だけでは身に付かない。