力を求め力を活用していかねばいけないのかもしれない。
ただし、それは力に有頂天になる危険を常に伴う。
たとえば霊感だの霊能だのというものは教えの本質そのものからすれば傍流もよいところだと私は思っている。
しかし、実際の救いという観点からそれらを正しく活用できるならば害はないともいえる。
このさじ加減こそが行者本来の力量ともいえる。
時代そのものが厳しい。
邪悪と隣り合わせという現実がある。
邪悪とはすなわち覇権をためらわない死に繋がる性質をいう。
これに対しただ瞑想を通していくだけでは現実は暗黒に囲まれていくのみであろう。
現実に対し正義を積極的に作用させていくことを怠ればその通りになるだけである。
この点、河口慧海先生の在家仏教は端的に軍備は必要であると述べておられる。
仏教者が触れがたい点に触れておられるところが誠実である。
私はこの一か月で2度ほど喉に違和感が出た。
子供が喉を傷めた時と遠出した時の2回である。
どちらも大ごとになることなくおさまったが、このご時世において風邪をひくだけでも多方面に影響が出てしまう可能性がある。
体力の維持がこれほどまでに重要だと認識されたことがあっただろうか。
武漢コロナ感染はもはや年齢のせいにもできない。
病院にも期待できない。
むき出しのまさに戦場のような様相である。
どのレベルにおいても油断は厳禁ということなのだろう。
精神から肉体に至るまで油断せぬ中での総力戦ということになってくる。
まさに戒定慧の陣型がみえてくる。
俗世における仕事をこなしながら戒を維持することは確かに多くの困難を伴う。
しかし、倒れても立ち上がることから始めていかねばいけない。
最近のニュースをみていてひとつ言えることは、酒如きで社会が転んでいるという実際である。
居酒屋は酒を出さねば生活出来ないという痛ましい現実である。
アルコールがなければ遊べないという大衆の貪欲である。
そしてついに公権力が酒の提供の禁止に出るのである。
なんという愚かな顛末であろうか。
抵抗せねばいけない。
ともあれ、我々は地球規模の戦国時代をこれから乗り切っていかねばならないのだ。
平和と自惚れに現を抜かして正当に待機する力をみすみす取り逃がすことはもはや間違いというべきかもしれない。
ただし、それはあまりに精妙な位置づけにあるために言葉や理屈で表現することは難しく、正しい実践行によって制御されるものである。