次元といってもそれをどうイメージするかは別として、地獄とはおそらく次元と次元の境のことを指すのではないだろうか。
私は最近そう感じるようになった。
次元とは、この世に即せば、おそらくそれは規範意識というものに近い。
無邪気に自分の考えを押し通す者もいるが、ほぼそれは苦しむ結果をもたらす。
なぜ苦しむのか。
それは自分とは違う規範意識と衝突して理解ができなくなるからであると私は考えるのだ。
最たるは戦争であろう。
どれだけ凄惨な世界でもそこで以心伝心できるのであれば、そこは地獄ではないのかもしれない。
考えの近い者同士がどういう形であれ共同して暮らせるのであれば、そこは地獄ではないということは可能なのではないだろうか。
仏教が餓鬼界や修羅界などを想定するが、それぞれが成立する世界である理由は、それぞれの世界に通有する規範があるからであろう。
餓鬼界のボスや修羅界のボスなどは今だけ金だけ自分だけの人間の見方からしても不幸ではないのかもしれない。
私の説によれば、現在の共同体から脱して違う世界へ向かおうとするときに地獄がどうしても現れる。
人間から天上界へ至るときですら地獄は必ず通らねばいけない。
突き詰めると、迷いが地獄である。
迷いとは、体験的には、断絶、無理解とでもいうべきだろうか。
定とはイメージとしては明かりや救い、安心である。
定に入ったならば、外縁に打たれても迷ってはいけない。
迷うことで地獄が続いてしまうからだ。
こうしてみると経験上、地獄と輪廻は不即不離である。
次元と次元の狭間に落とされて無間地獄の苦しみにあう。
私の青春時代はほぼ迷いの無間地獄にあったように思う。
そして今は次元を抜け出る過程にある地獄とでもいうべきだろうか。
真面目な人は真面目を貫いた方がいい。
真面目な人が迷って不良を装うと失敗するのだ。
たいていの人がそれで失敗しているのではないだろうか。
善の世界で生きたいならば、善を貫くしかない。
ここが厳しい。
迷って悪を装えば苦しむのは当然なのである。
不条理にあったときこそ善を深めるときなのである。
これが難しいのだが。