最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

自分自身との対話に救われる

自分自身に助けられていく。

 

このブログを始めて以来、表現や視点については多く追加されているが、本質に変化はない。

変化があろうはずがないのは、先人に負っているものが大きいからであるが。

 

ともあれ、時々読み返すことがある。

そうすると、今時点ですっかり意識から抜け落ちている視点を過去の自分に指摘されていることがよくある。

 

そうだったな、と。

 

よくよく考えてみても自分自身がもっとも自分のよき理解者である。

他者は他者の世界に生きている。

それは自分自身にとっては結局ところ他次元の世界なのである。

期待をすれば裏切られるようなことになるのも道理なのだ。

 

自分自身を師としていけるように修行する。

これがもっとも堅固な行き方であろう。

無論、他からも学ぶ。

しかし、学んだことは自分の行いを通して自分自身のものとしていかねばいけない。

多くの人は学ぶだけで終わってしまう。

私もそうだった。

しかし、何千冊と本を読んだからといってやはり学びは学びにすぎない。

一方で、学びは少ないが行いが凄い人もいる。

学びが多ければもっと実りがあるように他からみえることもあるが、本物の強者はこのタイプだろう。

本物強者は現実をしっている。

 

人生は苦だ。

カッコいいことなどない。

恥の部分だけを他者に切り取られる。

そういうものである。

 

痛みの連続である。

修行として構えることでしかその痛みを消化し昇華していくことはできない。

もしそうでないならば、酒に頼ったり異性に依存したりということになっていく。

真面目である人ほど危険だ。

真理を目指す心と欲楽に迷う心があまりに交錯するようだとつまらぬスピリチュアル系に騙されて心が先に壊れてしまう。

 

修行としていくことこそが狭くはあってもそれが道となる。

 

人生の目標は、己の役割を全うすることである。

そしてその役割を決めるのは自分自身なのだ。

決して他が示すものではない。

己自身の間断のない行いが徐々にそれを示してくれる。

苦しみはその過程としていく。