最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

地獄にあって責務を全うする

地獄を経て強くなる。

これも真実ではないだろうか。

このブログではすでに明るさそのものに着眼していない。

むしろ漆黒の闇に着目するところから光明をみている。

 

人それぞれの工夫の分だけ宗派が開けていく。

だから、その工夫に追随するだけではやはり自分自身の生き方は見えてこない。

先人の教えに感謝。

これは大前提であるが、その先は己自身をしっていくことが修行である。

そして地獄とも思えるような単身における体験こそが魂を磨くのだ。

 

地獄とは何だろうか。

ひとつは無駄な努力である。

そして、もうひとつはまさに正しい努力に対する障害であろう。

正法に対する否定である。

ともかく地獄を切り開くためには忍耐力が要である。

確かに忍耐力こそがあらゆる徳の基礎であろうと私も思う。

あきらめないところに閃きが宿るからだ。

忍耐力さえあれば素直さが生きてくる。

そうなってくると勘の悪さというものはもはや気にすることはない。

必ず修正される。

 

山に籠るより対人関係の方が難しいのではないだろうか。

地獄の中心であることが多い。

私には私の工夫が最近ある。

接してくる他者には一時的に神が宿っていると思った方がいい。

特に無神経と思えるような者ほどそう想定して接するべきだろう。

少なくとも侮る気持ちは生じないはずである。

見下すから魔が差すのだ。

ポイントはひとつ。

祟られないようにするためにお願いの気持ちを一切持たないことである。

そしてさっと引き下がることが大切だ。

これで100%失敗しない。

 

世界はこれから容赦のない交渉が始まるだろう。

相手の足元をみて高く売りつける。

安く売れると見込めば市場を壊しにかかってくるだろう。

結局、山に籠って誰かに供養をしてもらいながらする修行などもはや娯楽である。

切り合いの中において正気を保ちながら生きていく。

誰しも寂しさを抱えることになる。

だからこそ覚悟をもって正義を実践することに感動も生じるのである。

負の連鎖を断ち切る責務。

責務を全うする者だけが明るい存在である。