最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

今は無願三昧に注目する時期

ついこうしたいとかこうなりたいとか願ってしまう。

それが仏道に合致しているならば、菩提道であるが、そうそう合致するものではない。

毎日掃除をすれば分かるが、埃はあっという間に落ちる。

これは人の心でも同じで、あっという間に穢れるのである。

穢れというのは、本能的な行動に出てしまうことである。

ちなみに、それでいいじゃん!というルネッサンスは間違いを含んでいると私は思う。

これは世界史のたとえば教会と権力の関わりの読み方に関わる。

 

武漢肺炎で、いろいろ不都合が生じて苦が増しやすい。

物が手に入らない。

病で体がうまく動かない。

思うように学べない。

などなど、四苦八苦の定義にすべて当てはまるだろう。

 

これを乗り越える方法は、まず足るを知るということが最初の一歩であるが、さらに深めて無願三昧がある。

それは今仏道にあることに徹底していくことだろうと思う。

一呼吸一呼吸を意識する。

これは今流行のマインドフルネスに通じるが、その呼吸の中に神仏に対する感謝を込めていくのである。

無願三昧と節制は密接に関連するから、実践を重ねればいろいろ智慧も発現してくると思う。

もちろん以上のプロセスも戒定慧であり、六波羅蜜である。

 

自分の心に偽られていることがある。

自灯明と法灯明といっても、未熟な自己に頼れというわけではない。

そうなれるように修行をせよという意味である。

如来我を張れるようにすることが目標であり、それが常楽我浄へ至ることである。

不動心を固めて迷いを去ること。

これが無願三昧に至る唯一の選択である。