最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

本能のままではすべてが無駄になる

本能のままということに気付けない人は哀れだ。

本能をただ学問的に化粧しているだけである。

それらしく見えているだけ。

 

他の為と称して自らの心を軽くしたいだけ。

ただ自分の感情を他にぶつけているだけ。

 

こういうことが多いのである。

 

教えの道というのは感情には左右されない。

利他といった場合、相手の仏性に奉仕することなのである。

相手の機根については賭けねばいけないが、誤解の痛みを恐れては本末転倒である。

ともあれ、ただ教えを取り次ぐのみだ。

その過程が修行なのである。

そこには人間的な下心は一切あってはいけない。

それを清浄というのである。

 

自分が気持ちよくあることは清浄であることとイコールではない。

自分が苦しくとも清浄であるという場面はある。

 

祈りの継続という体験から不動心を学ぶしかない。

宗教家は行いからみていく。

論から推測をすることはしない。

ただ、通ったところを道としてみるのである。

 

貫いてこそ清浄なのである。

テレビのコメンテーターのように場当たり的な発言はするべきではない。

言葉には行いと同じ重さを持たせるべきだ。

 

自分の都合に合わせて全力で努力する人は、バックギヤに入れてアクセルを踏み込んでいることと同じである。

地獄とは意味のない努力の結果を待たされる場だ。

 

正しく進むためにはやはりしっかりと仏教を学ぶ必要がある。

そこには仏果がある。