最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

本物の働きは時に残酷のようにみえる

努力の方向を間違えていることが無間地獄である。

ポンと本物に出くわして、自我が崩壊するような経験は誰しもあるだろう。

むしろそれこそが救いなのだ。

 

仏法はその手のものである。

 

欲楽の世界が楽しめる時期には、真実を宣説する者がおかしな連中にみえるものだ。

しかし、人生は山あり谷ありであるからいずれ欲楽の世界を楽しめなくなる時が必ずくる。

その時になって初めて、彼らの言うことがもしかしたら正しかったのかもしれないとぼんやりと思えるようになるのである。

 

お釈迦様の一生は、人間的な視点で見ると、幸せだったとはいえない。

むしろ不幸のようにみえる。

一族は滅びを目の当たりにし、故郷へ帰る旅の途中で亡くなられている。

 

しかし、人間的な視点ではなく、如来常住の観点すると、やはり素晴らしい世界が開けてくるのである。

これは仏典の通りであるし師の生き様の通りである。

 

人生において様々な経験を積み、人間的な視点を超えて教えと向き合える自分になれて初めて教えに生きる者の本当の凄さが分かってくる。

ここにきて初めて無間地獄から脱することができたいえる。

 

そしてその先である。

本物の作用はさらに続くのである。

たとえば、自分より過酷な条件であるにもかかわらず自分より進んで教えを実践する者をみると、顔から火が出るほど恥ずかしい思いをすることがある。

これだ。

これも本物による自我の崩壊である。

自分はやっているという慢心が崩れる瞬間である。

 

教えを真剣に求めれば求めるほど謙虚になり土台を目指していく。

五体投地には心の変化の情景が的確に表現されていることに驚くのである。