勝つことより負けないことを意識する。
これが足元をすくわれないためのひとつの智慧だ。
突破より受け入れることを意識する。
無論、貫いていくのだが状況をよく観察し工夫をしようということだ。
これも智慧だ。
教えをやっていく上で最も邪魔になってくるものが気の強さだ。
プライドといってもいいかもしれない。
自分の欠点を指摘されたり的外れなことを言われたりすると、ここまでやっている!とか何を言っているんだ!とかいう気持ちが湧き上がって来ることがある。
その反発は世間の道理には合致していることはあるかもしれない。
しかし、教えの観点からはすべて不正解である。
ここが最初の最大の難所というか、気を抜けばいつでもそういう気持ちになる。
最悪、教えの尊さすら感じにくくなってくるので要注意だ。
絶対に忘れていけないことは、教えと道徳や倫理は違うということである。
次元が違うと言い切っても間違いではないかもしれない。
教えの工夫として性エネルギー昇華の実践をするときも自分の内面を観察する際にそこの混同がないかは常にチェックするべきだ。
宗教は救いのためにあるのだ。
教えの目的は論破することにはない。
そんなことをすれば相手に必要以上に業の心を起こさせて菩提の芽すら摘んでしまう結果になるに決まっている。
教えは教えとして実践と共に語る必要はあるが、大事なことは仏の教えを知らない人の反発を反発で返すようなことをしないことである。
信心信仰の道は誹謗中傷と隣り合わせである。
これはどの宗教宗派でも同じであろう。
大乗の道は険しい。
自分がすぐに変われなかったことを思い出しつつ相手の仏性に根気強く語りかけていくしかないのだ。