最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

鬼やジョーカー達へ

刑法の制裁規範が発動されるという観点からすると確かに凶悪犯罪だ。

しかし、その犯罪に至るまでの経緯というものを遡ってみていけば、やむにやまれぬ理由というものはきっとあるに違いない。

誰が好き好んで犯罪を犯すだろうか。

大変な理不尽を押し付けられて心を殺されかけた瞬間というものはきっとあったに違いないのだ。

報復に値するだけの情念を生み出した原因である。

 

しかし、世間は犯罪を行った時点の状況をもってしか事件を評価しない。

ここに他者からの無理解という地獄の火口が開いているといっていいだろう。

鬼を鬼たらしめジョーカーをジョーカーたらしめるのだ。

 

なぜその憎しみを深い悲しみに変えてゆけなかったのか。

鬼やジョーカー達が自ら思惟すべき点がひとつあるとしたらそこである。

憎悪を受けて憎悪を返す。

なぜそれしか出来なかったのか。

 

なぜ深い悲しみの中から道を見出すことができなかったのか。

 

 

日本は西洋から罪刑法定主義や厳格な証明を求める証拠法則の理論を輸入したが、現代ではそれらの考えは、国民の間において、ばれなければ何をしてもよいという原則に変容してしまっているかのようみえる。

理不尽の狭間に人を突き落とし、不本意な自力救済を強要し、這い上がれない者に犯罪者の烙印を押すことで臭いものにふたをしているかのようである。

 

 

他から討たれることでしか浄化の道がないところまで自らを追い込む。

鬼やジョーカー達の不幸のあり様である。

殺されたがっているのだ。

殺されることでしか救済されないことを分かっているから。

 

私は君たちが最後の最後に流すであろう涙一滴に気付くふりをするつもりはない。

ただ、君たちは特別というわけではなかった。

我々もまた憎悪を悲しみに変えていくことが出来ないのならば、同じ道を進むことになるのだから。