最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

在家修行者としての私の行き方

理不尽に直面した時に智慧をもって離れる必要があるものとは何か。

憎悪、愛着、取り越し苦労(疑心)である。

この3つは心のうちに潜ませておくと功徳を食い潰していく。

私は医師ではないが、うつ病の根本的な原因は、おそらくこの3つである。

とにかく人からエネルギーを奪う。

 

エネルギーが枯渇すれば死にたくなる。

これは不自然ではなく自然なことである。

 

漏れを防げということである。

宗教は対機説法である。

ある人には人を受け入れろという。

しかし、心が弱っている者がそれを真に受けてしまえば失敗する。

はっきり言う。

説法は適当に聞くべし。

思いやりを説けば外れないだけなのだ。

しかし、宗教の本当の目的はそこではない。

己の高次における幸福の追求である。

そして一人で読むなら大乗経典より初期経典である。

表現が分かりやすい。

そこには自分の課題に集中せよと説かれている。

 

近親者に対する憎悪、過去の失恋等の痛手、将来への漠然とした不安、これらは悪魔の軍勢であると考えてよいだろう。

しかも選りすぐりの強敵である。

油断をすれば討たれるのは自分自身である。

 

あっ今自分は怒っているな、惹かれているな、恐れているな、と第三者的に認識しながら祈りを優位にしていく。

この精神作用が瞑想の実践である。

キレッキレにエッジのきいた具体的なものである。

ボーとすることではない。

目をつぶって座るような修行だけでは現代ではもう通用しない。

どこでもこれをするのだ。

不意打ち騙し討ちの渦中にあってもだ。

 

覚えておこう。

年貢を徴収できる権限があるような昔の寺院の僧侶や近年のビジネス僧侶の話はまず役には立たない。

 

社会でもみ込まれて疲れ切ったその心と体において実践できなければ使える教えではない。

 

霊的なものは突き詰めれば己の生命力そのものである。

破滅しないことが目標である。

せめて人間であるように努力する。

憎悪、愛着、取り越し苦労のそもそものきっかけはなんだったろうか。

何が原因でミスをしたか。

これは皆大方経験があるのだ。

 

武器は経典一冊と五戒の実践だ。

そして、勝ちたいならば、やはり可能な限り漏らしてはいけないということである。

裏返せばそれが集中するということである。