最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

護法の鬼となっていくべき時代

今年の正月はいつもと霊気が違う。

静けさの中に何かどんよりとした重さを感じる。

くつろげている人はあまりいないのではないだろうか。

人類の未来の見通しがよくないのであるから当たり前かもしれない。

 

貧しい国の人間ほど遠い未来を考えられない傾向があるように私は思う。

自分に都合が悪くなるとすぐに約束を破ったりする。

なぜか。

私は未来を見通せないからだと思っている。

未来より今なのだ。

今のために役に立たないものを信用できない結果なのだと思う。

日本もそろそろ貧しくなってきたのかもしれない。

 

しかし、それは世俗の感覚である。

肉体中心の感覚である。

その感覚を乗り越えていくことがよくスピリチュアル界隈で言われる次元を超えることである。

言い換えれば、転生出離ともいえるだろう。

 

信仰を持つ者たちは常に未来を見据えて教義を守り抜いてきた。

密教は、大乗仏教からはじまったが、インドでは衰退した。

そしてチベットに渡りその中期の教えが中国の至り、空海を通して日本に伝わったのである。

中国の恵果阿闍梨は教えの未来を見据えて日本の僧である空海にすべてを託したのである。

この決断の奥深さには感嘆せざるを得ない。

そして空海の教えは日本においてまた時代に合わせるかのように様々な展開をみせている。

それはすべて教えを守らんがためである。

 

これからの時代は、護法の鬼になれるかどうかで決まってくる。

気迫が必要になってくるだろう。

しかし、それは御仏と共にあるという分かりやすいしるしでもある。

正義に立てば輝けるのだ。

教義を教養として受け取らない。

生き方そのものとして受け取る。

時に湧き上がってきそうになる疑心というものは一刻一刻の精進の実践によってのみ打ち砕く事が出来る。

あきらめてはいけない。

生き方そのもので乗り越えるのだ。

疑心は思想では絶対に解決できない。

なぜなら言葉の意味にどうしてもとらわれるからである。

信心の観点からすると言葉というのものは使うべき時にのみ使うのである。

自他の迷いを誘うような言葉は可能な限り使うべきではない。

天からの見守りを感じていきたい。

護法にかける思いこそが転機をもたらし魂を逞しくさせていく唯一の道である。