ふと閃いたので書いておきたい。
道を修習するとは貫くということだろう。
貫くなかにおいても疑心はわく。
しかし、貫くなかで智慧もわく。
徳と因縁がぶつかり合うとはすなわちこのことである。
智慧で疑心を破っていく。
ここが尊いのである。
その道理を示したのが仏典である。
貫いていくとそれが道になっていることに気付く。
そこに至ると理屈はもうない。
ただあるだけだ。
私はここにきて徐々に宗派に対するとらわれが消えてきている。
関心があるのは、貫いている様のみである。
誰かの引用による説得はもう通用しない。
そこに厳然としたものがあるかもしれない。
自分自身の生に対して実直であれ。
置かれた環境をしっかり観察し感情を整え足場を固めねばいけない。
命がかかっているのだ。
他に頼るべきではないかもしれない。
今ある自分でぶつかってみることが必要な時かもしれないからだ。
澄み切った心境のもとで定めた観念にしたがって命の限りを尽くす。
これが幸せである。