最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

心をおさめていくことに通じていく

今週は週5でジョグに出た。

そして、読書量も大幅に増やしている。

再び学びの期間に突入したという感覚である。

3合目から上へ目指さねばいけない。

内なる力が蘇ってきた感じがある。

 

ブログを読み返してみると、今やっていることはその通りである。

ただ書くこと先行しがちになってはいけない。

やはり行いが先である。

 

ジョグが思ったよりできている。

老化であろうかとあきらめていた節があったけれども、欲をかかずに走り出したところうまくいっている。

うまくいっていない時にもあきらめずにいたことはよかった。

運動に関しては実感として3週間程度のオフはむしろプラスだと思う。

身体と心は回復しているときにいろいろ学ぶ。

昨年は月間走行距離が30キロくらいにまで落ち込んだこともあったけれども、たとえ週1のジョギングでも未来には繋がるということだろう。

 

活力を正しいことのために用いる。

これが性エネルギー昇華であった。

お釈迦様は言われる。

正しいことは成し難いと。

しかしだからこそ、やっていく価値がある。

怠らず努め励む。

 

とにかく心をおさめていくことだ。

心が怒りや憎しみといったものと共にあるならばこれは修行とは関係がない。

怒りや憎しみは家に入った蛇を狩り出すような真剣さをもって排除せねばいけない。

それが己を守るということである。

では、なぜ怒りや憎しみが心から追い出せないのだろうか。

これは答えは一つである。

迷いがあるからだ。

この迷いが不安を生み出し不安が疑心を生み出す。

疑心による自己犠牲が最も愚かである。

優しいが、それは己の自我を満たすためにする行為であるからだ。

だから悔しくて泣くのである。

必要なことは優しさと強さである。

強さは信心信仰によって養っていくことができる。

肉体の鍛錬とは関係がない。