新しいこととは本質に近づくということだ。
本質から離れようとすることは放逸になるということだ。
それは新しいことではない。
ブッダの真理の言葉感興の言葉は今の私に大きなインパクトを与えた。
そして、しばらく言葉を使うことができなくなり瞑想の状態に入ることになった。
そこにただ教えがある。
これを規範と呼ぼうが法と呼ぼうがそれはたんなる呼称の問題にすぎない。
責任を持たねばならないのは、それに己の生を包摂する段階である。
そこに生じる智慧こそが、生を豊かにする。
私は私の人生を生き切っているだろうか。
あらためて問い直す契機となった。
やることは変えないし変えていない。
しかし、今はもっとそれを極めていきたいと熱望している。
夜中にトイレのために目を覚ましてぼんやりしているときに自分自身の生がいかに脆弱なものであるかを感じることがある。
肉体というものは思う様にはならぬものだし心の力みからくる気迫も衰えやすいものである。
行き方はそうではない。
しっかり帰依していく生き方こそが恐れを除いていく唯一の道なのだ。
大乗の教えは包摂の体系であると私は考えるに至った。
密教などは特にそうではないだろうか。
人々が法に生きた証そのものではないかと私は考えるようになった。
法に基づいて最後の最後まで生き抜いた人々がいる。
だからこそ教えは語り続けることができるのである。
肉体の終わりは必ず来る。
一刻も無駄には出来ないという緊張した現実を直視すべきだろう。
しかし、魂の進化はこれからもずっと続くのである。
肉体を中心にした構えは隙が大きすぎる。
肉体が終わりを迎えようとした時に魂に力が漲っているような生き方にしていかねばいけない。
これが教えに生きるということの本当の功徳の正体ではないかと私は思う。
恨みや憎しみだけではない。
死を乗り越えていくのだ。