最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

死を覚悟していくとは

時代が平等に死を迫っている。

明日がどうなるか全く分からない。

餓死するかもしれないし凍死か熱中症か、はたまた害虫などにやられるか。

想像しうることは実現しうる。

 

死を覚悟するとはどういうことか。

これはおそらく今日を精一杯生きることができるかということである。

未来が暗いと分かれば多くの者がみだらに手を抜く。

しかし、そうであっても自らは精一杯生きる。

これが死を覚悟することのひとつの具体的表現であると私は思う。

 

死を覚悟するためには多大なエネルギーを必要とする。

迷いを削いでいかねばいけないからだ。

疑心を破っていかねばいけない。

霊的なエネルギーとして魂に集中させていくことで死をひとつの変化として克服せしめていく。

性エネルギーはその最たるものであることはすでにこのブログの本旨である。

 

死の直前をイメージすることが性エネルギー昇華の奥義であると感じている。

そこが生そのものだからだ。

自らのすべてをその生を達成するために用いていく。

生きたぞ!といえる人生にしていくために今があるのだ。

 

死を覚悟すると、悪いことをしている暇は全くないことが分かってくる。

これこそが明らかな智慧の第一歩である。

その地点に立つならば、物惜しみすることなく人に優しくしていくことが大切であることに理由は必要もないだろう。

ただ己の仕事に邁進していくことに尽きる。

 

感情に振り回されて一生を終えてよいのか?

この問いには死の直前をもって答えることができるはずである。

 

持てるものすべてを魂に集めていく。

それが祈りの実相である。

物事に集中出来ないことはよくないことである。

なぜ集中できないのか?

それは死をよくイメージできていないからであろう。

本当に大切なことが分かれば執着は毒虫の如く追い払うことができる。