托鉢ではまず生活できない社会である。
せめて不動の心だけは忘れないという生き方である。
汚れては正し汚れては正しの繰り返しのようなところがある。
常に逆風に中にある。
本質は不変であるとしても教えの在り様は時代によってその外形は変わらざるを得ないだろう。
そのためには霊的天才の仕事が絶対に必要なのである。
打ち込めば打ち込むほど本質的な正しさが滲み出てくるような仕事が必要なのである。
結局師匠の言うとおりだった。
こういう体験は数多い。
仏典だけに頼ることも予定されていないのではないかと私は思う。
その時代時代に相応しく読み解ける者が必ず出現するのではないだろうか。
それが仏意というものではないだろうか。
真摯に布教に励む者ほど浄らかであるように私は感じる。
自らがそのように生きていない限り布教という行為には絶対に及べないからである。
自らの心を軽くすることばかり考えているようではご利益信仰ということである。
この気付きは重い。