仏典では教えの功徳は汲んでも汲んでも尽きないものと表現されることがある。
故にどの教団でも法要においては常に威儀を正す。
それを何百年と繰り返す。
荘厳行ということなのだろう。
凡夫には耳にタコであるに違いない。
また同じ話かということになる。
しかし、そうではないということである。
疲れが見えるようではやはりどこか自我で引っ張っているところがある。
そこを見極めてそのしこりを外していくことが修行である。
法によるということは自分を磨き正しいことわりに整えていくことだ。
そうすることでしか教えの功徳に触れることはできない。
心を守る。
この一言に尽きるものを今の私は感じている。
教えはそのための至高の智慧である。
心を守るために智慧をもって戦うのだ。
その意味で人生は常に能動的なものになっていく。
戒を保つことにはそのまま教えに生きることだ。