最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

祈りを深めて超えられない紙一重の差をつけていけ

一枚岩でいた方がこれは絶対にいい。

最悪なのは八方美人である。

これは最終的に必ず失敗する。

敵将であっても敬意を持てるような者がいるが、その本質をよく観察すればその理由は分かってくる。

 

信頼に関することについては保険はかけておかない方がいい。

人脈という言葉があるが、これは最悪の言葉であるから使うべきではない。

私利私欲のために人をコマのようにすべきではないからだ。

 

信心信仰を持つということは一枚岩になるということである。

教えを中心にしていくことである。

一乗である。

 

今を活かさねばどのみち死後もない。

先祖供養から身近な人に対する思いやりを抜きにしては今はないのである。

私の感覚では8割の人が最初の一歩から間違えている。

自分の幸福を望むから幸福が遠ざかるのである。

そして信仰の歓びは肉体本意ではない。

やる気が出てきて余裕が出てくるとそういう本質をすっかり忘れてしまうのが普通の人間である。

思い出してもう一度やり直すことが大切だ。

次は前より少しうまくなっているはずだ。

そうやって輪廻の輪から脱していくのである。

 

神仏への帰依も最初から深まることの方が例外である。

辛い体験をした人ほどそれが裏返ることが多い。

普通の人はただただ日々欠かすことのない修練のみである。

帰依があってはじめて輪廻の輪との距離が分かるのであるから必死にならねばいけない。

 

キョロキョロ周りを見渡してもなんの助けにもならない。

見渡すより祈りを深めることに集中だ。

普通に見えるような人が凄い祈りを確立していることはあるが、その姿は祈りを持った人にしか見えないからだ。

普段から職業や年収、外見といった観点から人を観察する習慣しかないような人には絶対に認識不可能である。

しかも多くがそういう人、つまり衆生である。

 

感じて深めて一日でもはやく突破して欲しい。

せめて衆生から一歩脱する気概を持つ必要がある。

性エネルギー昇華の実践はその先にしかないのだから。

そして様々に行動を具体的にしていくこともその先から始まるのである。