20代において団塊の世代が保身のために子供世代の未来を断つ政策を次々の打ち出した現実を目の当たりにした。
そして、40代においては選挙不正としてか思えない現象を通してメディアと資本ががっちり手を結べば権力機構を通して現実はいくらでも捻じ曲げることができるのだなということを確認した。
思えば私の青年時代には30歳までは社会は許してくれるが35歳までになんとかしないともう終わりであるという基準があった。
はみ出した若者達はこの基準によって葬られていった。
フリーター、契約社員、派遣社員と新卒採用を逃した者達の行き着く先は非正規というレッテルのもと明るくなかった。
彼らは社会的マイノリティであった。
時代は進み、今では半数ほどが非正規であると聞く。
そして、正社員という概念が遂に揺らぎ始めている。
その結果が終身雇用の崩壊だ。
30歳までになんとかしろという声も聞かなくてなって久しいかもしれない。
すでに年齢は関係なく、時代の要請に合わない者が葬られている。
個人として思う。
人生とは何であろうか。
これらの一連の流れに冷徹なグローバリストの関与があったのだ。
ほとんどの人がこの事実の存在をここ数年でやっと確信したわけである。
やっと理解できたわけである。
遅きに失している。
しかしこれが時代の濁流というものの威力なのだろう。
世間は苦である。
この身は苦しみが集まるところという釈尊の本質直感はこの時代の濁流というものを見越していると私は思う。
いつの時代も真理に照らせば明るくなかったということかもしれない。
優れた弟子たちもまた様々な法難を経て世間から教えを守ってきた。
命と命を結ぶように。
見当違いのまま思い悩み生を浪費することは不幸である。
私は教えにかけたい。
時代の手のひらの上で弄ばれることを拒否したい。