ともかくここ25年くらい日本社会に問題がなかったことはない。
いつでも息苦しいものがあった。
思い返せば労働組合は社会の中間層にあたる正社員以外には関心はなかった。
社会的風潮も30歳までになんとかしろなどと言われ個性的な若者は苦しんだ。
それが今では非正規が普通になってしまい経済格差による社会の分断で絆という言葉すら虚ろに感じるほどである。
中間層らしい存在がほとんどいなくなってしまったのだ。
こうしてみると問題は形を変えながらもずっと社会が炎症を起こし続けているのだ。
そして、武漢コロナでこれがまたピークを迎えようとしている。
これから先2年くらいだろう。
拠るべき自国の哲学がないということが日本にとっては致命的である。
このまま貧乏になってしまったら身動きすらとれないだろう。
これまでは日本人の同調性の強さに時代の風向きが味方していただけだった。
逆風である中、不幸であるのは責任のある者達の多くが保身に走ったということである。
貧しさの中にあっても社会に意気揚々とするものがあれば語るべき未来もあるが、今の日本にはそれがとても微弱である。
忍耐力にかけた者達の叫びがあるだけだ。
社会の炎症がピークに達したあとは大倒産時代と幕開けと共に個の時代がしばらく続くだろう。
平和的とはいえないだろう。
しかも日本人はまだ個というものをあまり経験したことがない。
近代は未完の状態でここまで来ている。
香港や台湾の人たちほどの意識の強さを日本人は持ち合わせているのか、これはまだ本当に未知数としかいいようがない。
私流に言えば、魂の安全保障を真剣に考え行動する時代が来たといえる。
この先は個から整える以外にもはや選べる道がないということでもある。
日本精神を語る者は増えるだろう。
信心信仰の道も見直されることがあるかもしれない。
しかし、それは今日思い立って明日急にできるようなことではないのだ。
普通の魂ならば5年10年かけてスタートラインについていく。
結局、ただのノウハウとして多くは直面している現実的な課題を克服するために語られるだろう。
もちろん、それでは本物ではない。
焦りから道を踏み外す者が本物の理想を汚す場面が逆に増えていくだろう。
これが問題なのだ。
そこから物事の本質が本格的に見えにくくなっていくのである。
本当の危機である。
我々はこれを最大限に警戒する必要がある。
魂の安全保障という称するのはこのためである。
理想を理想として崩してはいけない。
信心信仰の道にある者は現実主義者から罵詈雑言を浴びたとしても祈りの基本を崩してはいけない。
多数作善という言葉あるが、善い行いを少しでも多く積み重ねることだけが不動心へ通じる道である。
それを10年20年かけて培っていくのが本物の道なのである。
これは今から実践しなければ分からなくなるかもしれないことである。