最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

黄金聖闘士の使命は何人にも砕けぬ!

純粋に全力を出し切ることが利他行の基本なのだと私は感じている。

性エネルギー昇華はそこに通底するのだろう。

最後の一押しということなのだ。

 

がんばっている人間の側にいることが一番良い。

そうであるならばがんばる自分になることが他の為になるということである。

誰もが普段の生活で経験していることである。

やる気は感染する。

人格的な磁力のようなものは他に確実に伝わる。

 

努力の天才ということでよい。

結果そのものに人は胸を震わせているわけではない。

それは魂が習熟すればすればするほどプロセスにも関心を寄せるようになることと重なる。

空をしるが故である。

信頼の根源が何であるか。

これも誰しもが日常生活で本当は理解していることでもある。

 

集中し切っている者が時々いるが、境地に達していると考えてよい。

それが三昧の境地である。

そして、純粋に全力を出し切ることが無我の境地でもあり教えの境地である。

非常にシンプルである。

 

腰の引けた精進ははやめに終わらせた方がいい。

それは人情でやる精進である。

不安からはじめる教えではよくありがちである。

立派な人に言われたからという気持ちがあるとただその人に気持ちが引き込まれてしまっているだけで祈りにならない。

不幸な結果に終わることが怖いからである。

そういう人の信心をご利益信心という。

生真面目であることは言い訳にならない。

 

武漢コロナ禍で人々は行き場のない気持ちを抱え始めている。

物やお金による救済の本質は常に一時的なものにすぎない。

そこに救いの本質を求めてはいけない。

霊体が本体である。魂が本体である。

無条件にがんばる姿がその仏性たるものを実証していくのである。

そして人々の魂を決定的に勇気づけていく。

救うべき人から救っていくことになる。

物欲にまみれた者は後回しになるだろうが、これがまさに道理を物語る。

仏さまは自分に近い者から救済される。

 

苦しい時の過ごし方が最も大事である。

そこを不動の精神で圧倒的に貫くことが利他行そのものになるからだ。

私が師に抱く畏敬の念の核心はそこにある。

そして自分も苦難を乗り越えていく事が聖使命だと感じている。

すなわち私は私の立場で全力を出し切っていくということである。

教えがあるならば、皆が皆それぞれの宮を守る黄金聖闘士だと思って本当に間違いはない。