最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

言葉ではなく霊力を高めていく

乾いた言葉で他を説得する時代は終わりを迎えつつある。

そのペースが速まっている。

メディアや政治家がいかに美辞麗句を並べようとももうそれを真に受ける者はいなくなる。

もう騙されない。

明日、アメリカで起こることは無視できない。

未来の方向がさらに見えるようになるだろう。

 

グローバリストの策にすっかりはまっていたことがここ一年で完全に暴露された。

さかのぼれば明治維新にもその痕跡がうかがえる。

戦後はただただひどい。

司馬遼太郎はもしかしたら間違っていたかもしれない。

現を抜かしていた時間は長かったといえるだろう。

 

多様性とか多文化共生とかいった言葉を悪用され経済や思想による侵略を受けていたということが事の真相であったのだ。

自虐史観もそういう文脈で語られてきたように思う。

個人主義という言葉ですら彼らは侵略のために悪用したのである。

 

ではグローバリストの何がいけなかったのか。

それはただひとつである

言っていることとやっていることが違うということに尽きる。

美しいことを言って冷酷に切り捨てているということである。

彼らは正しい言葉達を盗み奴隷にし殺してきたのである。

人としての言葉を必死に語ろうとする者から財力や地位をもって大義を奪い去った。

貧困と理不尽を大量生産しながら誰も反駁できないような言葉を並べてきたのである。

 

グローバリストが使う言葉達は今や犠牲者のようなものである。

そこに気付くべきだろう。

グローバリストが盗んだ言葉達を霊力をもって救い出す時がきたといったよい。

個人主義といっても私が使う時とグローバリストが使う時ではもはや別物といってよいのだ。

 

悪徳グローバリストに立ち向かうためには、霊力を高めていく以外にない。

満ちた霊力が言葉に命を吹き込むのである。

新しい始まりはそこから起こるのだ。