最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

超限戦に対する基本的な構え方について

政治の話が多くなるがやむを得ない。

自民党は大丈夫か。

茂木大臣の定住外国人の地方選挙権を認める発言がネット記事になっていたが、これは本当によくないことである。

理由は日本の本国人ならば自明である。

この地方選挙権がどの国にとって重要であるかなど今や誰にでも想像できることである。

尖閣の主権を守り抜くと抜かした。

国会だけはしっかりしてもらわないといけない。

多様性という言葉に最も相応しくない人々が私利私欲のために日本国民を分断させようとしている。

池の水を抜かねばいけない。

 

よく違うことは素晴らしいという人がいる。

私は少し待てと言う。

違ったら一緒にはいられないぞと。

君は熊と一緒に住めるのかと。

同じだから違いが許せることもあるのである。

同じだからという隠れた前提に光を当てることをせずに違いをよしとするのは完全な嘘である。

多文化共生という言葉は用い方によっては嘘である。

共産主義より嘘である。

今日本を本当に侵略しようとする者がいるが、同じ人間だから話せば分かり合えるとするか、それとも違う価値観を持っているから独立のために戦うとするか、どうするべきだろうか。

ここをよく考えねばいけない。

私は侵略を企てる者は話せば分かる相手だとは到底思えない。

 

善意には覚悟が必要だ。

これ自体は真実である。

これだけのことをすれば相手もこうしてくれるだろうという甘い算段はただの日本的な利己主義でしかないこともかなり知られ始めている。

しかし、罠はこうである。

善意で行うことに見返りは一切求めてはいけない。

そしてこう続く。

その覚悟があるとしたら問われるのはその選択に最後まで耐えられるだけの魂の力量があるかどうかであると。

無意識のうちに人の善さを処世術としてしまっている者ほどこの罠に陥りやすい。

 

悪眷属とははじめから離れることが大切なのだ。

仏典にもそう書いてある。

ここで一切迷ってはいけない。

迷えばズルズルと罠にはまる。

悪い者達は関わった段階で他者の善意を利用をすることに躊躇しない。

これが超限戦の基本だからだ。

霊的な観察力をしっかりつけていくべきである。

何かを縁にして、たとえば仕事の取引などで、どのような印象誘導があろうとも邪悪な者に心を許してはいけない。

有害だと魂が観察したならば淡々と「私には関係ないんで」とこの一言でさっとその場から消えるように関係を断とう。

多少は散らかる。

しかし、散らかったならば片付ければいいのだ。

そのために仏道修行がある。