最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

選択肢のない者に寛容さを求めることは不可能を強いることである

今日夜のNHKで重症者数の数値を報道していたが、これからはこの数値だけでよい。

感染者数などは単なるインパクトの問題でしかない。

やはり重症者数は増えているようだ。

武漢コロナの因が縁を得て果となるまでに1か月程度かかるものと考えてよいようにみえる。

時間差があるのだ。

忘れかけた時に来る。

 

これほどの暑さと紫外線量でも徐々に重傷者数が増えてきているというのは節目的な予感がせざるを得ない。

武漢コロナはただの風邪と主張する者もいるが、ただの風邪ではないと考えておく方が対策に後悔を生じさせないだろう。

 

東京から田舎に帰省した人が差別を受けている。

しかしこの問題の立て方はどうだろうか。

私は帰省をした者が悪いと思う。

ここで差別という主張するから戦争が起こるのである。

ここで個人という主張をするから戦争が起こるのである。

相手の置かれた立場を考えれば帰省はしないはずである。

帰省した者は何かあればすぐに東京に帰ることができる。

しかし、帰省された側にとってはそこだけが唯一無二の居場所なのである。

この違いに気付けるのが日本人ではないだろうか。

そして寛容さを求められるのは他の選択肢がある側である。

選択肢がない側に寛容さを求めることは不可能を強いることである。

田舎の人たちが怒るのは当然である。

しかも差別をしているというレッテルまで張られる始末。

彼らは差別など一切していない。

名誉棄損もいいところである。

ただわが身に降りかかろうとしている火の粉を払っているだけである。

 

最近は何かあると〇〇警察という言葉が使われるようになってきた。

否定的な意味合いで使われているが、人々が結束するようになればそれは一種の自警団の萌芽である。

自警団の何がいけないのだろうか?

自分達の社会を自分達で守ろうという気概の何がいけないのか。

メディアは差別という言葉や個人という言葉を日本社会の靭帯を切り裂くときに使う。

それは日本人同士が結束すると困る連中が使う常とう手段である。

見極めて一喝できねばいけない。