最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

霊感が強い者ほど挨拶を大切にするべき

苦手な人に声をかけるという実践を今年から始めている。

荒行である。

そして、心をよく観察して落ち着きの中に住することを目指す。

やはりこの修行こそが修行と言い得ると私は思う。

山を走り回ったり冷たい滝にうたれたりすることも大変だとは思う。

しかし、その苦しみは都市に生きる者の日常ではあまり役に立たないと私は考えている。

 

霊和解である。

修行はそこに向けていかねば実は得られない。

ただひとり座して瞑想をしていても自分の気分がよくなっているだけでは意味は少ないのである。

性エネルギー昇華の実践はこの霊和解にはとても向いている。

自分の感じ方をよく観察して苦手な人間が本当に悪い人間なのかを見極めるに際してとても有効である。

身近な人間が苦手ならばそこは今生の課題であるから絶対に取り組まねばいけない。

逃げ出せば必ず後悔するだろう。

 

和解と言っても仲良くなれというわけではない。

しこりを外すだけでいい。

穏やかな時間を少し共有できればたいていの場合は外れるのである。

その時間を智慧で創出するのだ。

外れたならば必要な距離を保てるはずである。

 

霊感のある人ならば分かると思うが、受けやすいことは弱点でもある。

この弱点を克服するためには外すための努力が必要になってくる。

疎遠にすることでやはり外しにくくなる。

むしろ積極的にアプローチをすることがよい場合が多い。

これは経験上言える。

普段の行動を規律できたとしても人の宿命かどうしても3次元的な粗雑さからは逃れられないものがある。

不可抗力的に人間関係に微細な亀裂が入っていることがある。

時折挨拶をすることはその修復にとても役に立つことがある。

修復できればしこりは必ず外せるのである。