最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

感謝とは積極的に掴み取っていくものである

昨夜から偏頭痛がする。

私にはよくあることでだいたい最初の寒気が近づいてくるとなる。

個人的は警報である。

 

調子が悪い時であっても可能な限り日常を全うしたい。

今日も何とかいつもの時刻に起き読経をし掃除をした。

ランボーではないが「痛みは無視しろ」である(笑。

いい修練になった。

感謝である。

 

最近は死を想うことがよくある。

自殺願望ということではなくて、どう生きてどう死ぬかということを考える。

死から逆算すると余計なことをしている余裕はあまりないことが分かる。

そして生を充実させたとして、死ぬときには身辺をよく整理してあって子供には迷惑をかけないとか、重要なことは録画しておこうとか、着地点をイメージする。

 

いずれ今以上の痛みで思う通りに動けなくなるときが来るのである。

 

死もひとつの変化にすぎないが、その時に、痛みの中にあっても満足した心境でいられるように一刻一刻を正しく生きていきたい。

やり終えたと思えるまで全身全霊でありたい。

教えの世界は精妙である。

ひとつ狂えばすべてが狂う。

それくらいの厳しさがある。

歳を重ねるごとに持戒の大切さを感じやすくなることは魂の叫びなのだろう。

気を抜いた分だけ下がり遅れるのだ。

霊性をとるか肉体をとるか。

どんなときであっても身口意をしっかり浄め整えていくことが基本になる。

この基本に愚直にしがみついた者だけが晴れやかな智慧を得ることができる。

この智慧だけは自然と湧いてくるようなものではない。

忍辱行を乗り越えた感謝からしか生じない。

挑みがいがあるというものである。