最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

自分自身は騙せないのである

バッハ会長が帰った途端にこの大記録である。

たまたまだろうか。

こういうことを今年に入ってから国民は何度も経験している。

政府が感染者数を調整しているのではないだろうかという疑惑である。

証拠ありますか?

こんな声も聞こえてきそうである。

 

しかし、証拠で事実を認定するやり方は普遍的ではない。

教えをやれば分かるが、メモを取る自由も質問する権利もない。

表現の自由はないのである。

特に密教はそうである。

学問においては批判的な眼差しの有用性は説かれるが、教えにおいてそれは明らかな有害と説かれる。

まさにはじめにおいて疑うことなかれである。

ましてや教えの功徳を何かの証拠によって認定することなどしない。

むしろ教えの功徳に即して事実を語るようになる。

このあたりは教養として宗教を語る者には縁がないことかもしれない。

 

証拠がないだろう。

この一言がどれだけ人の霊性を傷つけてきたことか。

ばれなければいいという発想の根元には、この証拠が関係しているのである。

確かに知覚記憶表現において常に誤る可能性をもつ人が権力を行使して人を裁く時には証拠は安全弁になる。

しかし、自分で自分を騙すことができないにも関わらず他を欺くために証拠を隠滅するような行為は、違法性はないのかもしれないが、霊性を傷つける。

 

 

今世界で起きていることについては、ばれたら負けという純粋な発想に基づいて誰かが決定的な嘘をついているに違いない。

まさに証拠がないからだ。

負けていないということはばれていないということである。

嘘をつく者はそこを到達点にしようとしている。

サイコパスの仕事なのかもしれない。

これでは世界は今以上にはよくならないはずである。

 

自分は騙せないということに立ち返ることである。

意業を浄めることは他から見えない分だけ本当に難しいのであるが、意というものに注目出来ない限り大変革を起こすことはできないだろう。

身口意の浄めが一体となってはじめて教えの功徳である。

とにかく神仏に対する正直さが命である。

これは自らが体験して知っていくしかない。