最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

続・憎しみから解放されるためのプロセス

昨日の続きになるが、結局、エネルギーの質と量の問題になってくる。

健康であることがひとつの指針である。

勉強と運動に熱中すべしというのは文武両道と置き換えてもいい。

仕事に熱中できるならそれでもいい。

要はエネルギーの昇華先を具体的にしていくことである。

ここを曖昧にしたまま精神論にこだわり続けると100%心を病むことになる。

時間そのものを浪費することになる。

やりたいことがない。これは最も恐れるべきことだ。

 

さて、だいたい40歳を過ぎてくると誰しも自分の弱さも含めて受入れが整ってくる。

出来ればもっとはやくそれを成し遂げてもらいたいのだが、なかなかプライドの問題というのはしつこいのだ。

しかし、最後の厄年を終えるころには、自分の心がだいぶ客観的になってきているだろう。

青春的独我論から脱して関係性の中で自分を受け止めることができるようになる。

思い出も自然に振り返ることができるようなったらそのタイミングであろう。

憎しみもかなり客観化されてなんとか対処可能になっているはずである。

 

しかし、その段から悪覚に陥る者も少なくない。

今度は俺はこういう人間だから!という困った奴になっていく。

自分だけよければいいというタイプである。

金や地位を絶対視する者も出てくる。

言い難いことも平気で言うようになる。

世の中を見渡してみるとかなり多くの人がこの範疇にとどまったまま大人を気取っている。(だから世の中がよくならない。)

 

そうならないためには教えをしっかり学ぶ必要があるのだ。

己の健康を確立したら教えでさらに芯を通す。

これをして初めてスタートラインに立てると言ってもよい。

自分のためにエネルギーを傾注すること(自利)は何も禁じられていることではない。

苦しい時は多量のエネルギーを自分に費やすべである。

そして、鍛錬が進んで溜め込んできたことが自覚出来て来たら、今度は減量(利他)に鮮やかに入るのである。

徳太りの解消である。

その仕方は仏典にきちんと書いているのでそれを読めばいい。

自分ためだけに生きても幸福にはなれないことが今度はそれまでの体験を通して分かるはずである。

御仏や護法善神様に関心が持てる様になればエネルギーの質にも関心が湧いてくる。

そのうちに憎しみという感情が尊い修行の妨げになることが分かるのである。

妨げになることが分かればそこから離れやすくなるのだ。

離れるために修行がそこから始まる。

 

以上、要するにエネルギーの扱い方の問題である。

理論ではない。密といった方がどうしても適格である。

初歩的なスピリチュアルは世俗的なアドバイス止まりのものが多いが、間違ってはいない。

しかし、本当の問題の克服はその先にあってそこからは本当の信心信仰の道である。

よほどの霊的才能に恵まれた者でもない限り、我流で行くのは結局世俗止まりになってしまう。

このブログでは特定の宗派を紹介するつもりはないが、きちんとした教団で優れた師につくというのはむしろ王道である。

たいていの人は宗教に対する世間的な評価が先行してしまっているせいでかなり損をしている。(立派な人も実はたくさんいる。)