最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

如来我に気付ければ憎悪には対処できる

公文書偽造と選挙不正どちらの瑕疵が重いか。

自由主義や民主主義から考えれば政府の選定行為たる選挙こそがすべての議論の論理的前提になるはずであるから選挙不正の方が瑕疵は重いはずである。

一票の格差でも訴訟になるのである。

偽の投票ならばもはや論外である。

また選挙の立会人の排除も大きな瑕疵である。

しかし、反日人権派はバイデンを支持するのである。

ただただ自分達の思うように動かないトランプが憎くて仕方がないのだろう。

こういう節操のなさがまさに政治というものを特徴付けている。

政治は理論だけではない。

その節操のなさを含んで定義されなければ諸々説明がつかないことが多すぎるのだ。

三島由紀夫は政治は憎悪で動くといったが私も同感である。

メディアは純粋な若者に政治に関心を持てと叫ぶが、私は疑問である。

嘘まみれのメディアに事実を論評させるくらいならばAIに論点整理をさせ真理値分析をさせてもいいかもしれないと思っているくらいだ。

我が家は子供にはニュースをみせていない。

 

結局、すべて因果律による。

前提の前提を探る探究の果てに得た智慧である。

根元は仏性であると仏典は説くのである。

故にいつでもやり直せるのだと。

確かに、思う様には行かない。

生き方を正す努力が実を結ぶか否かは業の深さによるからだ。

なぜあんなよい人がという事件がままあるが、その説明はつく。

智を求めない凡夫は嘆くのみだろう。

業が深かろうが精進が実を結ぼうが結ぶまいが、それでも祈りを深めていくことが聖道なのである。

そしてどんな境遇にあろうとも聖道にあることを楽しむことが教えの妙味である。

 

これからさらに辛い時代が始まっていく。

憎悪が生じたらせめて悲しみに変えていく努力をしたい。

悲しみという感情だけはまだ救いがあるからだ。

師匠も悲しみを通して精進された一生だった。

信じた教えをもって正気を保っていきたい。

私は夜の読経でふと我に返ることがある。

散らかったものを一つ一つ堪える様に片付けるのだ。