払拭しておく必要がある。
尊くないと言いたいわけではない。
しかし、密教においては如来に至る道はそれら尊い神々ですら否定できない道であるということである。
つまり、自らに近い者から救ってくださるということである。
神道やキリスト教の方からはお叱りを受けるかもしれないが、これが密教の宇宙観である。
私も護法善神様に毎朝お水を捧げるところから一日を始めるので、信仰といっても間違ってはいない。
しかし、キリスト教徒の方のように万物を創造された存在とは認識してはいない。
かといって護法善神様なしには私の信心はないと思っているので、結果としては、同じようなものかもしれない。
護法善神様と関係で最も重要なことは浄めである。
手は合掌する手、口はお経を唱える口とそう思えば悪いことは出来なくなると私は師から教わっている。
そして、明るい気持ちで他に教えを語り思いやるある行動をとることである。
これが仏法の浄めである。
これから厳しい時代がくるとのことであるが、六道を超えるような輝ける精進があるならば人々の希望になっていくことはもう間違いない。
正法を護られる神々も必ずお喜びになって力を貸して下さるはずである。
他教においてどのようなことが言われようとも、運命の星々は必ず打ち砕く事が出来る。
密教の功徳力はまさにギャラクシアンエクスプロージョンそのものである。