最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

この身今生に向かって度せずんばさらにいずれの生に向かってかこの身を度せん

武漢コロナ禍でマラソン大会は中止が相次いでいる。

本来ならば今頃RUN NETからエントリーした来年冬に開催されるフルマラソンの抽選発表がある時期。

当選すると本当にうれしい(笑。

やる気が一気に出てくる。

私は年始に近隣で行われるハーフマラソンを走りそこから練習に弾みをつけて2月開催のフルマラソンに備えるというプランでここ3年は過ごしていた。

しかし、今年はおそらく年始のハーフの大会も中止である。

 

何もかも変わってしまったようにみえる。

しかし、ただ、走るという行為そのものには何の変化もない。

大会を目指す道が閉ざされただけである。

 

時代に合わせるために動くということはどういうことか。

今日は走りながらそれについて思惟した。

本質へ本質へ行こうとする自分の直感は正しいか。

むしろ何か特別なことはしないというこの選択でよいか。

私はふと自分をもっと開いていくことは必要だと感じた。

座したままというのはいけない。

相手をよく知ってからが修行だ。

もっと人に会うようにしていこうと、と。

そこからの不動心である、と。

 

明日から生まれ変わったつもりで人に会いたい。

自分を疑えばその分だけ弱くなる。

神経症とはその最たる姿だ。

自分の判断に絶大な信頼を寄せていくためには普段から欠かすことなく行ずべきことを行ずることである。

それが御仏に帰依していることの第一の徴表である。

そしてその小さな習慣の集積力が意志力に加勢して大きな力を生むのだ。

時には不動明王様のような強さだ。

戒を持するならばむしろその通りに言い難いことでも言っていかねばいけないはずである。

それがこれからの時代において命をかけるということでもあると思う。

信念に生きていけるチャンスに感謝していきたい。