師匠をみていて凄いと思うのは、何十年も同じ話を何度もされるにもかかわらずそこに向けた祈りが浅くならないことである。
普通はだれてくるだろう。
しかし、全くだれないのだ。
おそらくどの宗教でも優れた宗教家はそういう真っ直ぐさがあるのではないだろうか。
うちはそうである。
慣れてくると疑心が生じる。
最初は感動するのだ。
しかし、またあの話かという気持ちが湧いてくることがある。
我である。
それが反発心すら呼び起こす。
すると祈りが浅くなってしまうのだ。
これでは道でなくなってしまう。
思えば開祖も凄かった。
所作はゆっくりしているのだけれども、一つ一つがビシッと定規をあてるかような厳格さがあった。
道開きに伴う筆舌に尽くし難い苦労の連続の中にあり生涯貫かれた。
信者の誇りそのものである。
密教には師と弟子の絆といった温かさがある。
経典も確かに大事なのであるけれども、本質はやはり口伝である。
そして、その御心を守護せんとする護法善神様のお働きである。
常に救いはあるのだ。
師と一つになるつもりで祈りを深めるのが密教の行き方である。
水に沈んでいく香木ように。
今日は久しぶりにお寺に帰り、そのようなことを思った。
(このようなことを書いているブログはあまりないと思うので是非参考にしていただきたい。)