雨がしばらく続きなかなか思うようにランニングができずにいたが連休に入ってから少しペースが戻ってきた。
間が1週間くらい空こうがもう特に気にならない。
じっくりとゆっくりと走っているうちに徐々に今に集中できるようになってくる。
その感覚がとても心地よいから走っているのである。
私の走り方に体力はあまり関係ないのだ。
毎日ネガティブな情報が入ってくる。
社会に生きている以上、それを無視することは不可能であろう。
それは肉体を無視することと同質である。
しかし、そのままにしておいてはいけない。
一つ一つ祈りを持ってとらわれず問題を整序しておくことが大切だ。
死に対する恐れがその問題の整序を難しくするのだろう。
解決ではない。
ただの整序であってもだ。
また、死に至らなくとも肉体に不快感があるだけでも難しくなる。
祈りの中心を微動だにしない。
不動心というものがやはり信心信仰の究極ではないかと思う。
最後は南無である。
南無という境地においてはじめてすべてから自由になる。
病身であってもなお救いの道があるというこの一手にこそ信心信仰の真の価値があるといっていい。
純粋な祈りに到達することができたならば、それがそのまま尊いのである。
祈りが深まれば深まるほどシンプルになっていける。
シンプルになっていけば楽々となっていけるのである。
人の偉大さは見た目や境遇からでは分からない。
不安の少ない人ほど優れているのである。
これからの時代、不安が多い人から淘汰されていってしまうだろう。
ここは要注意である。
なぜなら教えに詳しいか否かは全く関係がないからである。
ただ純粋な祈りに到達しているか否かである。
思わぬ人が地獄の業火に焼かれることがあるだろう。
それはそういう理由からである。