難しいことがあるのではないだろうか。
それはとても身近にある。
身近というよりむしろ自分の内側にある。
それは人を許すことではないだろうか。
憎い嫌なアイツ!である。
これに取り組むことは辛い修行であると思う。
怨憎会苦との対峙である。
人間関係からうつ病などで苦しむ人のほとんどは根に憎悪があるのではないだろうか。
その果ての弱体化である。
惨めであるとしかいいようがないが、誰でも条件が整ってしまえばそうなる。
どうしたら憎悪を克服できるかである。
ポイントはひとつ。
容易く教えに逃げるな、である。
脳と身体であいつに勝つ。
ヒヤッとしてもそこをずらしてはいけない。
驚かれた人もいるかもしれないが、心に憎悪がある時に教えに逃げ込んでもこじらせるだけである。
結論から言えば、戦うことを許容することだ。
暴力も肯定だ。
いざとなればぶん殴る。
弱虫もやめる。
そのポジションにいては永遠に変われない。
己のポジションを変えるために真正面からどうしても戦わなければいけない。
17歳以下なら単身で学校へ殴り込みをかけてもいいかもしれない。
警察も人間である。
変に大人ぶるくらいならば大義をもって直接対決した方が後々楽になる。
18歳以上ならば、とにかく勉強と運動に精を出すことだ。
あの野郎にだけは絶対に負けたくない。
大いに結構だ。
高校生なら志望校へ進学することだけに集中できるだろう。
伝統工芸などの職人として就職するのも大ありである。
社会人の場合は少し工夫がいるが、それでもやはり勉強と運動である。
仕事に変化はなくとも、絶対にプラスになるから、自分を変えていくつもり取り組むべきだろう。
幸せになって見返してやりたい。
それでも十分だ。
失業中の者はまず酒をやめて毎日走れ。
それが続けばそのうち働けるようになる。
相手を殴り倒すくらいの気持ちで攻撃的に鍛錬をしよう。
容赦してはいけない。
利巧になっていくことは今の自分を欺くことである。
病に倒れた者は皆利巧になろうとした者である。
そしてとにかく全力を尽くしてヘトヘトになろう。
ヘトヘトになっていかないと自分を受け入れられないのだ。
自分の弱さをじっと見つめる時間が足りないと人を責めやすくなる。
俺はまだ出来るんじゃないかという妄想である。
勉強と運動を通してヘトヘトになる時間をたくさん持つことだ。
強くなる部分ももちろん出てくるが、弱さの自覚も同時に芽生えてくる。
ここに活路が出てくるのだ。
憎悪に亀裂が入る瞬間である。
教えを紐解くとしたらこのタイミングからだろう。
大切なことは憎悪の問題はエネルギーの問題であるということに気付くことだ。
理屈では断じてない。
心が閉塞してエネルギー不足になるから憎悪の感情が増幅されるのである。
要するにエネルギー量で敗北した痛みなのだ。
まずは己を縛っているものから心を解放せねばいけない。