最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

恐怖はむしろしっかり味わっていこう

アメリカのロサンゼルスで49度。

あり得ない気温である。

これはもう警鐘というレベルではない。

歪みがそろそろ無視できないところまできたということだろう。

人間に打つ手はない。

 

日本でも毎年の猛暑に対応して台風の規模が年々大きくなってきている。

南海トラフ地震も油断できない。

これは突き詰めていくと、我々の死への恐怖を直撃する。

私はなるほどと思うのだ。

我々は地球に生まれて様々な感情を学んできている。

それは魂を錬成するためであるが、最終局面はやはり肉体の死である。

しかもそれは絶対に避けることができない。

 

死を前にすれば細かなことは気にならないのではないだろうか。

発狂する人も中にはいるだろうが、愛する人を思い起こすのではないかと思う。

また、許しを乞うこともあるかもしれない。

恨みは捨てるだろう。

 

最近の激甚災害によるなんともいえぬ恐怖はよく味わっておくべきだろう。

「怖い」でよいと思う。

それ以上に言葉を選ぶことはむしろしない方がいい。

それはズレを生じさせるだけだ。

瞑想としてそのまま感じていった方がいい。

 

限られた選択肢の中でいつ死んでもよいような生き方をするしか道がない。

しかし、その道こそが仏道ではないだろうか。

結論から言えば、これはありがたいことである。

無慈悲のようにみえるけれども、大チャンスなのだ。

もし死を意識することができない状況になればまず堕落するだろう。

無限の選択肢の中で彷徨う孤独は地獄である。

 

恐怖をよく味わってシャンとしよう。

涙ですっきりするのと同じこと。

ありがたいことに物質主義の先行きはもう暗い。

この時代の道はもうひとつなのだ。

善なる個性を磨いて他を許し恨みを捨て去る。

未練なし。

この境地にあって刻々人の役に立っていけばいい。

心に穏やかなものが残るように生きることが何よりも大切だ。