最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

いざとなったらいい人はやめよう

日本に対する外国からの侵攻はあり得る。

 

ここ数日はウクライナの状況に釘付けである。

アメリカもNATOウクライナを助けなかった。

岸田首相は、それでも核保有はしないと言うのである。

準備を整えたロシアの軍隊は数時間で目的の大半を成し遂げた。

いとも簡単に人を殺して欲望を叶えた。

何故それが出来たのか。

ウクライナが核保有国ではないからである。

もはやこんなことは誰でも理解している。

 

プーチンはこれしか選択肢がなかったと言った。

最初からとる気でいたにも関わらず、あくまで面子を貫くのである。

本当に汚い!

魂が汚れているとはこういう状態をいう。

 

私は心を痛めたふりはしない。

ウクライナの方にはかける言葉もない。

日本も欧米と同じように何もしてあげることができなかった。

そして、日本も救いを求めて裏切られることになる。

 

 

ここから先はどう行動しどう準備を進めるかだ。

戦争が起こることを否定してはもうダメだ。

自らの正義が通らねば殺してでも先に進むような連中がごまんといるのだから。

欲しいと思ったら盗りにくる。

そんな野獣を説得できるはずがないのだ。

いざとなったらいい人でいることをやめよう。

私は鮮やかにやめたい。

次世代のためにあえて泥をかぶっていけばいい。

 

覚悟を定めていく方法にはひとつ先祖供養があるだろう。

ここにきて私は思う。

先祖供養とはあえて泥をかぶって逝った人々を想い感謝することではないだろうかと。

人知れず土台となって散っていった方々が最も尊いのである。

血縁を通してそれを観じていくこともよいが、もっと大きな心をもってよいと思う。

彼らは先代や他者の失敗の犠牲になった方々でもある。

理不尽を食い止めた方々だ。

苦しかったに違いない。

子孫である我々はそこに「ありがとうございました」声をかけてあげるべきなのだ。

それが供養であり本当の正義を明らかにすることである。

 

言い難い事を言っていくべきだ。

かっこいいことや美しいことは誰にだって言える。