最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

太陽の輝きを心の中心に持つ

f:id:ichiichi9:20200906164541j:plain

 

先日、このブログでは旭日旗を採用するとした。

あらためてみるとまさにこのようでなければならないと思う。

大切なことは魂を磨きこのように輝かせていくことだ。

 

そして神仏に帰依したところの心境をさらに研鑽し不動心を目指す。

死ぬまで前進だ。

退歩せぬ覚悟を決めることである。

まず世間からは変わり者扱いされるだろう。

あの人は宗教をやっている!これである。

しかしその壁を乗り越えずに教えを教養のままにしておいたのでは昨日指摘したとおり時代に飲み込まれてしまうだけであろう。

 

お布施で暮らすということではなくとも仏飯をいただく者としての自覚は持てるはずである。

その自覚があれば暴飲暴食はすぐに止む。

酒も欲しいとは思わなくなる。

悪趣に傾くことが無くなり場合によっては人間関係も大きく変わるだろう。

 

これからの時代は生き方が大胆にみえてくるところまでいかないと突破はできないだろう。

無論、失敗はある。

しかし、失敗を恐れてちょこまかしているだけでは時間だけが過ぎていくのみだ。

教えを語り教えの如く生きる努力をする。

これをするのだ。

もし世間話で悪口や愚痴に付き合うはめに陥ることがあるならば、それは自らの業であるから浄めるために真剣になっていかねばいけない。

はじめのうちはもどかしい経験をするだろう。

失敗したら慚愧懺悔でまたやり直せばいい。

魂を成長させるために教えはあるのだから常識的な失敗の意味にとらわれてはいけない。

 

人はそれぞれ境遇が違う。

したがって誰しもが教えを具体化するこの世で唯一の存在である。

横をみて単純に安心してはいけないということだ。

しかし、苦しい中においてもきちんと精進していれば必ず誰かの勇気になっている。

そしてその誰かがその人自身の道を見出していく。

この連鎖こそが最も身近な利他行ではないだろうか。

苦しい状況にある人は物凄いチャンスを手にしているといえる。

 

速やかに実行だ。