このクラスの台風が普通になるのではないかという危惧がある。
明日は我が身と思っておいてよいだろう。
東海地方のみならず次こそ関東にも直撃するだろう。
また、避難所に行けば武漢コロナにも気を遣わねばいけない。
万が一感染でもしてしまったら入院もままならずかなりの確率で死ぬだろう。
このあたりの葛藤は予想通りである。
GOTOは避難行動のために使えるだろう。
観光ではない。
避難のためだ。
この目的の為ならば誰も文句は言わない。
企画当時は誰も思いつかなかったのではないだろうか。
しかし、これは結果オーライである。
安倍首相は運が良すぎる。
雷が鳴り続けている。
もうお金をかけさえすればできるような経験には価値はない。
しかし、真に価値あることに確信を持てなければ時代の狭間で溺死するだろう。
それを指摘しておこうと思う。
実は今一番危険なポジションにいるのは、神仏に「関心がある」人々である。
そういう人は教養としてお寺のことや教義のことに理解を示している。
しかし、帰依には至ってない。
それは帰依がないのと同じなのである。
帰依がないというのは神仏を信じるという純粋な体験がないということである。
結果、生き延びるために我武者羅になれる連中と同じ土俵に残らざるを得ず迷いから遅れをとりがちになり悲惨な結果になるだろう。
信じなければだめだ。
信じて行って解かるのである。
ただの心の問題と思っていたら大間違いである。
御仏を信じ疑いを抱かないことは大乗戒の核心である。
それは壮大な積極な作為であり不作為である。
(普通の人間にとっては)簡単ではない。
物事は批判的に捉えろとか斜めからみろとか常識は疑えとかいろいろ言われてきたのではないだろうか。
それが罠なのだ。
全部捨ててしまわなければいけない。
そういう学問的なアプローチは信心においては害毒でしかないからだ。
信心には一つ目安がある。
お経をあげていてこみ上げてくるものがあればかなりいいところまできているはずである。
師匠からそう教わったし経験から確かにそう言える。
また、御仏を信じれば自分がベストコンディションであることはもう必要条件ではない。
どんな状態でもむしろ霊界から様々な事象を通して加護してくださる。
それは本当に温かい。
それが宗教的な歓びである。
私がこのブログで皆さんに知っていただきたいことである。