最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

如来我を張っていくことが求められている

信心信仰の功徳は具体的には何だろうか。

それはおそらく運が強くなることではないかと思う。

私の場合、自分の実力以上の閃きに恵まれたりことがままある。

これは引き上げられたような感覚であり垂直上昇である。

 

アセンションとか次元上昇とよく言われるが、私はその垂直上昇のことではないかと思っている。

無論、私の体験などはまだまだ足りぬものであるが、智慧による解脱というのはその完成なのではないかとイメージするのだ。

 

地球の状態を考えればもう本気の本気で修行しなければいけない時である。

ならば修行とは何かである。

私はこう考えている。

初対面の人にも真実の態度で接することであると。

不妄語戒でもある。

部屋にこもった時に真剣になることができても開かれた場で信念に生きることは案外難しいものである。

しかし、もうこれをやっていくしかない。

私もかつて水行等をしていたが、あれは自分が気持ちよいのだ。

真実の態度で人に接することの方が桁外れに難しい。

 

神仏に帰依するというが、それは神仏に選ばれるか否かである。

我々が神仏を選ぶわけではない。

多くの人が誤解をしているけれども、神仏が我々の行いをみるのである。

これはどういうことか。

自己満足の世界ではないということを意味している。

うまくやれたかどうかは神仏が判断すべきことである。

神仏に自分を合わせていく。

我々に出来る事はただ一つ。

ただそれに向けて真摯であることだけである。

これが御仏を意味する右手に左手を合わせていく合掌の本質である。

 

人は人を通して修行をする。

人心が荒れてきているこの時代において仏法に生きることはとても難しいことである。

しかし、もう後がない以上、出来るか否かはさておき、もう今すぐやるしかない。

過去にとらわれてはいけない。

一歩踏み出し、そして生涯貫くのである。