俗人が信じているような平等というものはない。
機会も均等ではない。
では何が平等であるのか。
それは学ぶ芽である。
つまり仏性があるという点でのみ人は平等である。
仏教はまさにこの一点に救いを見出したのだ。
この視点がないと平等という言葉を正しく扱えない。
飛びつきたくるのが憲法だろう。
しかし憲法上の平等は人生の指標にはならないのである。
平等は国家に対して主張するものである。
この基本的な関係性は中学くらいで習うのであるが教えている先生もおそらく分かっていないから伝わらないのであろう。
他者との不平等を理由に争うことが最も不毛なことだ。
ほとんどは時間の無駄である。
国家が平等原則に反した場合にのみ争う価値がある程度である。
法学はこの極限的な状況を設定したうえで議論をしている。
広い射程をもつ話ではない。
劣等感に苛まれている人は教えをやるべきだ。
教えを学べば因縁とその切り方を学ぶことが出来るからだ。
差別即平等という言葉や怨親平等という言葉にも出会うだろう。
ハッとすると思う。
涅槃原理を学ぶことで利他行の意味もみえてくる。
くれぐれも学問経由で心を癒そうとしないことだ。
学問の役割は人の生き方の悩みを解消することにはない。
疑いがあるならば何か哲学書を一冊読んでみるとよい。
完全に期待は外れるはずである。
学問は健康な心をもったうえでのぞむべきである。
そうでないと学問自体からも見放されるという悲惨なことになりかねない。
世の中にある宗教で学問と教えをごっちゃにしているものがあるが、私は間違いだと感じている。
やはり教えは教えとして説かれているものではなければいけない。