最後の祈り

我ら一同、未来永劫、逆賊の誹りを受けることになるが、それでもよいか

宗教上の操について

前に身内の真言の僧侶のことを書いた。

得度受戒する前に勝手に理趣経をあげていたことを先輩僧侶から咎められたという話である。

これは密教には超法罪というものがあるからだと思われる。

師匠から許されて初めて理趣経真言も唱えることができるのである。

 

なんでも平等という左翼思想がまん延しているせいか、その勢いのまま密なる教えに土足で踏み込んでいる人が多いけれども、それは法流血脈という観点を完全に無視するものであり邪道である。

例えば、教えの世界においては質問する権利とかメモをとる自由はない。

真言をあげたいのであれば、資格を持つところに入門しその世界に属するしかない。

 

密教の特徴はなんといっても師匠との絆ではないだろうか。

教養としての教えは遠くから街並みを眺めるのと似ているが、信心信仰としての教えは一つの家を選んで中に入ることと似ている。

 

新しい宗教においては万教帰一的な観点から様々な宗教を網羅的に語るところがあるが、私は経験上お勧めしない。

また、宗派として新しいこと自体は問題ないのであるけれども、やはり開祖が伝統宗派において一宗一派を開く資格を得ていることは法流血脈の観点からの条件である。

お経の受け継がれ方をみてみれば分かることであるけれども、教えは命と命の絆の上に守り通して尊い今があるということである。

勝手に横入りしたところで霊流ともいうべきものは流れてはこない。

ここに厳しさがある。